瀬高道本線

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瀬高道本線とは、低東の鉄道路線。地高を起点にし、択田海須吉祖的成、終点の瀬賀を結ぶ。

複数の鉄道事業者によって保有・運行されており、下記の区間でそれぞれの鉄道事業者が担う。

概要

瀬高道本線は択田の地高から瀬賀までを結ぶ道である瀬高道から取っている。元々公伝との貿易都市であった地高と東南陸国との玄関口であった瀬賀を結んでいたことから両都市間の行き来は激しく、真っ先に鉄道による輸送を最優先に挙げられていた。そのため低東でも初めて敷設された鉄道路線にあたる。

なお、瀬高道という歴史のある道の名前を借りた鉄道路線だが、瀬高道本線と直接呼ばれることは少ない。飛択鉄道区間では地高と択田を結ぶドル箱路線でありブランド力を高める意味で飛択本線としており、岸中鉄道区間では瀬高道においては経由地にしかならないため馴染みが薄く、里沼~根原野の区間では里沼線という愛称が付与されるくらいである。瀬高道本線の名前を上手に活用しているのは、比較的最近まで国営化されていた高東鉄道区間に限られる。それでも瀬高道本線の名前が残るのは、低東鉄道協会が登録しているためである。

歴史

開業までの道のり

  • 2152年:瀬賀~的成 着工。
  • 2168年
    • 瀬賀~的成 開業。
    • 択田~海須(現在の港中央) 着工。
  • 2170年:地高~択田 着工。
  • 2179年:択田~海須 開業。
  • 2182年:地高~択田 開業。
  • 2242年:低東国家統一。鉄道の国有化を推し進めるために低東国鉄道が設立される。
  • 2256年
    • 瀬高道本線全線開業。
    • 瀬賀~栗熊 を国有化。

最初の瀬賀~的成の区間は当時は高東王国の運輸省が保有及び運営していた国有路線であった。現在の低東の領域に限らず、東南陸国では初めての鉄道路線開業であった。そのためにこの区間の開業では鉄道路線の開業に必要な材料の調達に時間がかかってしまい、完成までの16年かかることとなった。

戦乱期

  • 2268年:世界戦没実施による物資不足から運行を休止
  • 2278年:地高~海須 を国有化。
  • 2304年:地高〜府須間を電化
  • 2332年:府須〜択田間を電化
  • 2346年:場廃大戦により、一部駅が破壊され、物資不足に陥った

世界戦没では主に蒸気機関車を運行するうえで必要な石炭が不足するトラブルが発生した。この影響により電化を推し進めるようになったが、これが戦争の標的になりやすく、場廃大戦ではすぐに機能不全に陥ってしまった。

択田近郊の事業者問題

  • 2351年:戦後の鉄道民営化計画により、下記の内容を実行
    • 地高~択田の区間を飛択鉄道に譲渡
    • 択田~海須を含む択田~栗熊の区間を岸中鉄道に譲渡
    • 大帝都交通社設立を設立し、瀬賀~栗熊を譲渡
  • 2370年:択田~海須を別ルートで経由する富海線を着工
  • 2379年:富海線を開業

戦後、連合国により鉄道事業者の民営化を急がれることになった。このうち、民営化にあたって議論が生じていたのが択田~海須の区間である。国有化以前は飛択鉄道が有していたが、岸中鉄道が直接択田に乗り入れることができないことを懸念し、この区間を岸中鉄道のものにすることが決まった。これに飛択鉄道は不満を募らせ、バイパス路線として富海線を新設することになった。現在、飛択鉄道が海須方面まで走行する際はこの富海線を経由するようになっている。ただし、瀬高道本線の経由地は正式には択田~海須は岸中鉄道のものであることはそのままである。

現代

  • 2418年:大帝都交通社が経営破綻を起こし、瀬賀~栗熊を高東鉄道が継承

関連項目